フラメンコとの出会い

天本英世は生と死の狭間を潜り抜け、断末魔の戦争末期を生き延びた。終戦後、東大法学部を中退し俳優になった。天本がスペインに傾倒するきっかけとなったのは、音楽からであった。少年の頃よりクラシック音楽に馴染み、大学に入った辺りでクラシックは卒業した。そして民族音楽へと入っていった。

中央アジアから中南米の民族音楽まで地球をぐるりとまわり、そしてスペインの民族音楽に出会う。その一つであるフラメンコにに出会った天本は、フラメンコに熱中し、フラメンコをきっかけにしてスペインをこよなく愛するようになり、1973年以来、二十数回もスペインを訪れている。7カ月半をかけてスペイン全土を巡る長旅も敢行した。フラメンコの根源である「カンテ・ホンド」のテーマは、ほとんどが「死」だ。例えば、シギリージャの唄の文句にこういうのがある。「お前が死んだ、お前が死んでしまった、俺もお前の棺桶の中に一緒に入って、地獄の果てまでお前と一緒に行ってやる」恋人が死んだ悲しみを切々と唄いあげるのだ。また、恋人の死だけではなく、虐げられて殺された親兄弟、戦って死んでいった兵士たちの唄など、全て「死」が主役だ。ロルカの有名な芝居「血の婚礼」のテーマも「死」だ。

つまり、フラメンコから感じられる情熱は「死」に対する情熱なのだ。そして「死」の裏側には「生」がある。「死」に対する情熱は、そのまま「生」に対する情熱だ。フラメンコは「死」であり「生」である。フラメンコの情熱は「死」と「生」への情熱なのだ。激しい「死」の裏には、必ず激しい「生」がある。天本がフラメンコに惹かれた理由はここにある

スペイン人の様に生きる

スペインといえば闘牛の国といわれるが、闘牛も「死」がテーマだ。スペイン人は、牛と人間との死を賭けた戦い、「死の儀式」を見にくる。スペイン人は「死」を見て「生」を実感する。スペイン人は、常に「死」と「生」を身近に感じて生きている。

これもまた「死」と「生」への情熱なのだ。天本は、そのスペイン人の生き方、人生観にも魅了されていった。スペイン人の別れのあいさつで「アスタ・マニャーナ、シ・ディオス・キエレ」というのがある。これは「明日も生きていたら、明日また会いましょう」という意味で、明日というものは、確実にくるものではない。人間の未来は永遠ではない。人生というのは、はかないものである。だから今日を精いっぱい楽しんで生きようとする、スペイン人の人生観が表現されている。日本人は何年も、何十年先でも、自分は生きていると思っている。長生きこそが、人生の目標になっている。今日がおろそかになっている。それはたんに生きているだけではないか。フラメンコは迫害を受けたジプシーがその生の苦しみを叫ぶもので、スペイン人は苦しみを味わう中で生を楽しむ。今日という一日を精一杯生きている。テレビ番組、「笑っていいとも」に出演した際、司会のタモリに72歳という高齢にもかかわらず、元気でいられる秘訣をたずねられて、「スペイン人の様に生きる事」と答えていた。

ロルカの詩の朗読

そして、フラメンコと深い関係のある詩人フエデリーコ・ガルシア・ロルカを知り、その美しい詩に傾倒していく。民衆に支持され、多彩な才能を開花させながら、フランコ独裁政権により38歳の若さで銃殺された悲運の詩人。ロルカの命を奪ったスペイン市民戦争にも興味を持つもつようになる。天本がスペインに通い始めた1937年、スペインはまだフランコ独裁政権下だった。スペインではまだ禁じられていたロルカのレコードや詩の本を探して歩いた。スペイン国内でロルカの詩はタブーとされていた時代、天本は、日本でロルカの詩を朗読し続けた。それは、ロルカを殺したフランコ独裁政権への執念と、自らの不条理な戦争体験を重ていた。ロルカのつくった曲を取り入れた有名な音楽劇に、「はかなき人生」というのがある。人生は短いんだ、はかないんだ、だから楽しもうというスペイン風ミュージカルである。スペインには、人生ははかないものである、はかない人生だからこそ、今日を懸命に生きようという思想がある。比べて、日本人は自分はなぜ生きるのかという問いかけをしない。それは哲学がないからだ。なんのために生きるか。生きているとは何か。ロルカの詩を朗読を通じ現代の日本人への警告と、死の裏にある生の素晴らしさ、今日を懸命に生きる大切さを訴えてゆく活動は、天本の死の直前まで続けられた。

三つの河のバラディーリヤ(Baladilla de los tres rios)

グァダルキビール河は
オレソジとオリーブの間を流れる
グラナーダの二つの川は
雪から小麦へと下る
ああ 去り行きて 再び戻らなかった愛よ
グァダルキビール河は
暗紅色のひげを持つ グラナーダの二つの川は
一つは疾し一つは血を流す
ああ 空へと去ってしまった愛よ
セビーリヤは帆舟のための道をもつ
グラナーダの流れの上を
漕ぐはただ溜息ばかり
ああ 去り行きて 再び戻らなかった愛よ
グァダルキビールよ 高い塔よ
そして オレンジ畑のなかを吹く夙よ
ダルロとへニールよ
他の上の 死んだ小さな塔よ
ああ 空へと去ってしまった愛よ
流れは叫びの鬼火を運ぶと
一体 誰が言うのだろう
ああ 去り行きて 再び戻らなかった愛よ
流れはオレソジの花を運び
オリーブの実を運ぷ
アンダルシーアよ お前の海へ
ああ 空へと去ってしまった愛よ

スぺインは恋人

足繁くスペインに行く天本をみて彼の父は言った「英世はきっとスぺインに恋人がおるんじゃろう」と。天本は言った「スぺインに恋人がいるのではないのです、スぺインそのものが私の恋人です」不毛のエストレマドゥーラのあのべハルの町から美しいカンデラリオの村、さらに由緒あるあのラ・アルベルカの村も、そして赤茶けたメリダもバダホスもあの洋々と流れるグワディアーナの川も、アストゥーリアスの美しい村サンティジャーナ・デル・マルもアラゴンの山中のアルバラシンの村もあの赤いテルエルの高地も、絶壁の上のクエンカの古い町もバスクの悲劇の町、しかし今は落ち着いた静かな平和な町ゲルニカの、あの活気に満ちた小っちゃな子供たちも、カタロニアの緑に包まれたピックの町のあのほんとうに優しかった子供たちも、アソダルシーアの絶壁の上にそそり立つロンダの町の素晴らしさも、細長く一直線に登りつめて行くあの真っ白い霊の目を燈るようなアルコス・デ・ラ・フロンテーラの町と、あのぺーニャ・フラメンカの人懐っこい素朴な男たちも、千変万化する色彩の中のアルハムブラ宮殿を倦かず朝から晩まで眺めて暮したロルカの面影の漂うグラナダの町も、強烈な光と影が鮮やかに映し出されるグワダルキビールの流れを抱くセビージャのあのあくまでも澄み切った明るい町も。

遺言

私は、スペインで死にたい。二十数回も訪ねて歩きまわった大好きなスペインで死にたい。 スペインの中で一番数多く訪れた、アンダルシアで死にたい。 しかし、もし私が日本で死んでしまったら、せめて私の灰を、グワダルキビール川に撒いてほしい。 アンダルシアの北、ドンキホーテのラマンチャ地方を下り、アンダルシアの入口の東に、カッソーラという小さな美しい町がある。山に雪を項いた、美しい小さな町がある。 町をさらに山へ入ったところに、グワダルキビール川の最初の一滴という名のついた、水の涌いている地点がある。 もしも私が日本で死んだなら、その源に、私の灰を撒いてほしい。

グワダルキビール川へ

2005年10月25日、天本英世の遺灰は彼の遺言通り、遺族と日本とスペインの友人達の手で、アンダルシア州の東、カッソーラの山深く、グワダルキビール川源流より撒かれた。 彼の遺灰は、ロルカが称えた大河を、オレンジとオリーブの木々の間を流れ下り、愛して止まなかった、スペインの大地の土となるだろう。彼の魂は今もなおロルカの詩を口ずさみながらスペインを巡る旅を続けている。

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